舗装されていない砂利道の住宅街、路地の入口には広葉樹林、家の裏側は広大な酪農場。そんな風景に囲まれた静かなアトリエに半年後の僕らはいた。ここでもコーヒーのいい香りがしている。エプロンをかけ、いつもと変わらない作業に没頭する版画家の姿がある。
L字に切り取られた大きな窓、その反対側の棚には、既に彫られた版木がぎっしりと積まれている。卓上に設えられたこの部屋唯一の無骨な機械もおそらく版画に必要な何かなのかと感心しかけたがそれはコーヒー豆の焙煎マシン。もの静かで、客人を過剰に歓待するわけではない、しかし笑顔でもないのにどこまでも人を安心させる穏やかなその表情。版画とコーヒー。そして趣味のよい書棚。それが版画家・細見浩氏のアトリエのすべてである。
「朝起きて、朝食が終ったあとここで木を削って、そのうちにお昼だよって言われてお昼。で、気が向くとここでまた夕方までというような毎日が繰り返されてるんです」
とくべつなことは何も行われない。細見さんのこれまでの人生も、あるいはそうだったのかも知れない。教育大学卒業後石油会社に勤めた細見さんは、好きな本を読んでいられる時間のもてる仕事に就こうと教員への転身を決意。生まれ育った旭川をあとにし、この根室地方へやってきた。とうぜんながら小学校教諭という職務が読書用にあり余る時間を与えてくれたわけではなかったし、それより何より細見さんは道東の変化に富む自然の景観にむしろ魅了されていく。同時に、かねてからの趣味である「絵」との再会を果たし、教員仲間ら同好の士をあつめた会に参加するなどして新天地での生活をしずかに定着させていく。
版画との出会いはその頃だった。仲間からの葉書に刷られていた木版を目にして自分でもやってみたいと思いつき、我流で版木を彫り、更にそこへ油彩や水彩の筆を足していったと言う。その〝版画のような版画でないような作品〟がひょんなことから北海道在住の版画家の目に触れ、ひとたび知己を得ると細見さんは加速的に版画へ傾倒していく。
昭和30年代の終わり、東京オリンピックが開催されたその頃の中標津。細見さんは東京神田の老舗画材店・文房堂や御徒町の清水刃物店などに手紙を書き、彫刻刀や紙といった道具をつぎつぎに注文していく。ふつうなら60°程度の三角刀をさらに鋭角な90°で特注したり、道内で刷毛やバレンをつくっている職人らと出会うのもこの頃で、それら道具の中には今に至るまで大切につかわれているものもある。