<< 2014/1/21 0:01 〈外〉>>

それが何であるか、を、見極めるのはむずかしい。
かたちをとらないことが美しさであり、目に見える気体で、触れるものには確かな感覚をのこす。
火に見入る人の目の虚ろさは、なんだろう?
何かを思い出している。
思い出す情景があるとすれば、それは遥かに遠い。
もはや焦点を合わすことさえ無駄であると言わんばかりにその目は、あるのかないのかのその先の、ある一点だけを見つめている。虚ろだが、たしかな目。

まだ今のようには条例などが整備されていない昔、こどもの私は庭で焚火に興じていた。おそらく小学校低学年のころだ。
思えばたいへんキケンなことをしていた。大人になってからの火遊びとは質の異なる実際的な危険に満ちている。
偶々通りがかった隣家のおばさんがそれを見て咎めた。
「火遊びするとお寝小するわよ!」
「するもんか!」
と、幼い私は小津映画のわんぱく坊主のように応えただろうか。
それほどわんぱくではなかった僕はおそらく黙って下を向き、咎められたことにしょんぼりするのが関の山だったろう。 その晩、わんぱくではない、比較的まじめな私が粗相した。
目覚めて最初に再生されたのは昨日のおばさんの顔と声だ。
「約束の土地」とか「弥陀の心願」とか「神との契約」「キリエ・エレイソン」などというイディオムを思い浮かべただろうか。
しかし小学生にもなってお寝小とはまずい。現代なら学校を休むに足る事件だ。

その私が、焚火社などというものを結社した。
火を熾せるような技術を私自身はもたない。
社中には実際に火くらい熾せる頼もしい参加者もいる。また周りには「薪わりしたことないでしょ」と言いつつ微笑すら浮かべて鉈を振り下ろしてくださる方もいる。
私はその火をただただ美しいと感じながら、段取りも、ケーブルを巻くのも忘れてどこか彼方へ行って帰ってこない。そういう人間に、私はなりたいとは思わなかったが、なった。
さらに生半可にも編集を担当しているくせにこの第2号の発行を予定より大幅に遅らせてしまった張本人として今これを書いている。
したがって「お元気でしょうか?」などとここに書くわけにはいかないのだけれど、皆さんがお元気であることを静かに願う。
どうか読んだら燃やしてください。あなたの手を、少しでも暖められるものならば。

photo : Hidetomo Abe