<< 2016/07/11 <外>

コンニチワ。
本来、往復書簡のように機能するはずだったココ<薪蒔記>でしたがひとりで喋ってます……。
さて焚火社、今年は新たな参加者が一気に増えてうれしいかぎりです。
山下太郎と有馬野絵のふたりは、これまでの焚火社にはなかったPOPな感性をもたらし、大阪から南雲彩子がきわめて感覚的で官能的な要素を映像で与えてくれています。
そしてさらに、ずいぶん前から(3年越し?)準備をしていたものの、ようやく実現に漕ぎ着けた日本画家・牧田紗季が三部作を引っ提げてここに登場いたしました。
そこへ、三部作ですから三組の音楽家が彼女の絵を見て楽曲を書き下ろし、ちょっとしたコラボレーションを展開しているわけです。
牧田さんと初めて会ったのは2014年の多摩美大学院日本画領域の院生8人展『Octet』を観に行ったときでした。7月11日が初日とあるので、僕がそこへ行ったのもちょうど今ごろの、暑い日でした。
そこには彼女の2013年作品「どこにでもいける。なんにでもなれる。」と「絶望的なほど良い天気」の2点が展示されていて、誰もいないフロアでその2作を近寄り、遠ざかり、ソファに座り、文字通りためつすがめつ眺めました。
これ以上には傾げられないというほど首を横に倒し、観る者を見つめながら今まさに握っていた風船の紐から手を離す少女の「どこにでもいける~」、そして数基の熱気球が飛び交う都市を背景に、青空色の風呂敷包みの(骨壺が入ってるとしか思えないかたちの)箱を誰にも渡すまいとして抱えている少女を描いた「絶望的~」。
この時点ではまだご本人と会話を交わしていない僕でしたが、既にすっかり彼女の、説明のまったく不要な世界観に魅入られてしまっていました。
挨拶を交わした彼女は清楚な、まさかこのひとがあの絵を?! と思えるほど、こう言ってはなんだけれど「まともなお嬢さん」という風情でした。
牧田紗季の描く世界は常に、どこか違和感を抱きながらもそれ以上の理解も解釈も必要としない決然とした断絶で完結している。僕はその、世界の手放しかたにつよく心を動かされたわけです。
目の前にいる清楚なお嬢さんの中のどこでこういった<断絶>が行われるのか、最初は戸惑ったものの、何度かお会いするうちに、ああナルホド、と得心していきます。
この先、彼女は彼女のうちに潜む謎を、彼女自身で繙いてゆき、作品化していくことでしょう。
ほんとうにわくわくするような若い日本画家の誕生と言えます。

さてそこへ寄り添う音楽……。
前回更新ではQUJILAの杉林恭雄が「ゆりかご」発表から間を空けることなく「蛇の目」で淡く儚いロマンティックなフォークソングを添え、今回の更新では細海魚が世にも美しいピアノ曲を。
三組めにはもうひとりの音楽家がまたまた<新音楽>を深化させてくれています。乞うご期待。
今回のこの『傘三部作』企画を起ち上げたのが4月。
梅雨どきはまだ遥か先のはずでしたが、当然ながら時はあれよあれよと言う間に進みました。
そんな雨季にひっそりたのしんで頂こうと準備した企画でしたが、なんだこの空梅雨は!? というくらい、雨が降ってくれませんね。
(九州では度を超した集中豪雨が実害を及ぼしました。この場を借りてお見舞い申し上げます。)
南北に長い日本列島ですから、すっかり梅雨明けして夏まっ盛りの島もあれば、ここ東京がじきに梅雨明けしてもまだ北の地域ではこれから本格的な梅雨空を迎えることでしょう。
そんなふうに、気長に、しかも(焚火社本来の活動期の)冬じゃない季節に作品づくりをしてくれてる作家のきもちも反映して、どうか心の中だけでも慈雨を降らせてみてください。

ぜんぜん関係ないですが、考えてみると「雨」という名の「飴」はありませんね。
焚火社は飴をつくる機能をもちませんが、そういう質素な風情の飴をバッグにしのばせてそっと差し出す、なんてのはいいかも知れません。
「雪」とか「霧」とか「新月」とか、そんな名前の飴をつくってみたい。
「涙」はちょっと勇気が要るなあ……。
塩モノ流行りではあるけれど、飴にまでして涙をのむ、なんてことはしたくないですし(笑)。
できれば「辛酸」味の飴も舐めたくはない。
ポエジイと飴を売る店……。ふむふむ。考えてみよう。

皆さんもどうか、暑さに負けないで、好い梅雨と夏をお楽しみください。