November 2013

Santa Maria Novellaのポプリ

 十一月の空気は甘い。夏の疲れが大地に染み込み、発酵して、やわらかな気配として再び現れる。憂いを帯びた豊潤な世界。この季節だけを生きたら、どんなにいいだろう。澄みわたる空の下、自転車をこぐスピードが少しずつ上がる。今朝は寄り道していこう。
「今年の出来はかなりいいですよ」
 立ち寄ったファーマーズマーケットで、焼き栗を買う。
「毎度ありがとうございます」
 交わす言葉は少なくても、去年と同じ顔に会えたことに心がなごむ。手渡された紙袋が、ほのかにあたたかい。
 それから、なじみの珈琲屋で深煎りの豆、笑顔が可愛らしい女性の作ったアップルパイを買った。

 きょうのおやつ時間は大充実だ。よし、と、よろこびをかみしめていたら、一瞬、森のような匂いが鼻先をよぎった。
 思わずうしろをふり返ってみるが、人の流れに紛れて香りの足跡を見失ってしまう。

 フレンチラベンダー、フレンチセージ、イタリアン・ベルガモットのすがすがしさに、アイリス、ココア、アンバーなどのフローラルな甘さが加わった、甘く温かいココアのような香り……。友人の調香師のアトリエに遊びに行くたび覚えた、さまざまな香りの名前が出てくる。

 この香りの主はどんな人だろう。ロマンチストで、繊細なものを好み、身のこなしは軽やか。雨の日に聴くピアノ曲のような内省的な深みを感じられる人ではないだろうか。想像がどんどんふくらむ。

「匂いの記憶は心に深く残るものだよ。一瞬の感覚が重なり合って、記憶をマーブル模様にするんだ。そして、香りは記憶をひも解くスイッチに変わる。この店の香りも、記憶スイッチのひとつだね」と叔父が言う。

 画家の叔父が長年アトリエとして使っていた空間の一部を改装して作った店は、染み付いた絵の具の匂いに包まれ、様々な時間旅行の末、辿り着いたモノたちが、ひっそりと暮らしている。彼らは言葉を持たない。寝息のような呼吸で、空間をゆるやかに構成している。新参者は彼らの呼吸を乱してはいけない。執事のような気品を保ちつつ、いかがわしいモノやあやしいモノにも受け止められる奥行きが必要なのだ。

 そして選ばれた香りが、イタリア、フィレンツェで800年の歴史を持つ薬局で作られた“ポプリ”だ。フィレンツェの丘に今も自然に咲き誇る草花や植物の実、樹脂などを素材に、壺の中で3ヶ月間、密封し、熟成して生み出される香りは芳醇でスパイシー。

「最近、同じポプリを使ってるお店をみつけたのだけど、“何か”が違いました」
 常連客のひとりが、“何か”というのはなんでしょうか、と聞くと
「あやしさ、でしょうか。ふんわりとしたあやしさ」
 にやりとなった。

 枯れ野、澄み空、長い夜。冬がまたやって来る。
 ふんわりとしたあやしさで、夜闇を灯していこう。


サンタ・マリア・ノヴェッラ「ポプリ」
Santa Maria Novella(サンタ・マリア・ノヴェッラ)

text & photo : Reiko Shimada