未知の白がつれてくるもの。
ミーカーとは2018年12月、彼女が東京・青山のギャラリーで個展をやっていた折、当時僕が入院していた病院へ見舞いに来てくれて会ったきりになっている。その後も彼女はいくつかの個展をし、僕は僕でなんとか暮らしている。ふたたび連絡を取ったのは今回のISSUE07へ作品を提供してもらうためで、2021年の暮れ、いつものように何点かの候補作の写真を送ってくれた。
ところが、ちょっと間が空いていたからか、あるいは制作の最中で忙しいのか、送られてきた作品を見て「おや?」と思う。さっそくメールで問い合わせをする……
「なかなか面白くなりそうな作品だけど、ぜひ完成形を見せて欲しい。待ってます」
という内容。そこへ元気よく(と僕には読めた)ミーカーから、
「これで完成品だよ。展示会で『肉まんみたい』と言われたよ」
と返事がかえってきた。
震えがきた。不覚にも完成品に対して「完成形を見せて欲しい」と言ってしまった己のせつな過ぎる審美眼と、その形状が「肉まん」呼ばわりされたこととがない交ぜとなって妙な震えを起こしたのだ。
あゝたしかに。これを肉まんと形容した人はすごいぞ、と改めて思い、同時にまた「ん?」と思う。「沖縄でも肉まんをたべるのだろうか」という素朴な疑問である。沖縄にはムーチーだったりポーポーだったり、もっと言えば天妃前(テンピヌメエ)饅頭や山城(ヤマグシク)饅頭があるのでとくに肉まんをたべる妥当性やタイミングを見出しづらいのではなかろうかという余計なお世話な発想から起こる疑問だ。
少なくとも僕はごく一部の店のもの、と言うより横浜『華正楼』のものを除いて、この世で売られているほとんどの肉まんが好きではない。世の中から肉まんが消えたとしても「ゎぁ……」と思うくらいでさして困らないだろうと思う。
しかしだ。そんな僕がこの東恩納美架の作陶をみて、そしてよそ様から「肉まんみたい」呼ばわりされたその作品を眺めていて図らずも肉まんがたべたくなってしまったのだ。
できればここに上げた写真の、取っ手付きの湯呑みにウッチン茶か清明茶なんかをいれて横へ置き、肉みそなどもそこへ添えてあったらあったでまた幸いかも知れない。
「完成形を見せて欲しい」と僕に思わせたこれらのやきものは、見れば見るほど「何かを連れてくるかたち」に思えてくるではないか。これまでの東恩納美架の作陶からは少し逸脱した「未知の白」とでも呼ぶべきポップな予感がそこにあるように感じられる。
この作品を展示会で「肉まんみたい」と形容した人の勇気を心の底から褒めたいし、ましてやそれをつくった張本人には白くて丸い、ふかしてたべる何かを賞品として差し上げたくなる。
ちなみに私ごとではあるが僕は花巻きが好きだ。
外間隆史