東恩納美架の手。
Text: 外間隆史 photo: 東恩納美架
さてそれは、片口を模したコーヒーカップなの?
と僕は訊いた。
「ジャグだよ。
注ぐやつです。ピッチャーともいうのかな。
お水でもよし、茶葉入れてお湯さして茶漉しで入れて簡単なポットみたいにしたり。
花瓶にしても。」
ミーカーがそう応える。
ああ、彼女の声がした、と思った。
声がしたかと思えばその片口的ジャグからは注ぐたびにミーカーの、つまり東恩納美架の笑い声が聞こえてくるじゃないか。
ああ、たしかにお茶を入れてポットでもいい。
彼女なら、工房の庭で採れたハーブをごっそり入れておいしいお茶を淹れるだろう。
しかしどうなのか……
と僕はもう一度考える。
それ、コーヒーカップだっていいじゃないか……と。
もちろん声には出さず、考えるのみだ。
横から飲めばほら、ふつうのカップとかわらない。
コーヒーが冷めてきたら、片口からすーっと飲んだらいい。
「へんなかたちにしたねミーカー」
そんなことを思って笑いながら、ほんとうは花を挿すよ。
できれば那覇の庭の花がいいけども、それは叶わないので駅前の花屋へ。
「もっと切って。もっと短く」
と僕は花屋に告げるだろう。
それを言うとき僕の手は、東恩納美架のつくったジャグのかたちをしているのだ。
ああ、ほら、ちょうどいいよ。
ハンス・アルプの詩の一節に、
手のひらに蝶々をのせて。
手のひらに露のしずくをのせて。*
というくだりがある。
それは先をつぼめた、何か小さな生命を守ろうとするかのような、そんな手つきに思えてくる。
このジャグを見ていると、なんだかそんな詩が陶器にでもなったかのように感覚される。
ああそうだ、東恩納美架の手とはそんな手なのである。
* ハンス・アルプ「夢の中の決意」より抜粋。『航海日誌』高橋順子訳/書肆山田